『ドライブ・マイ・カー』/『「利他」とは何か』とともに

※映画『ドライブ・マイ・カー』の内容に触れています※

 

最近読んだ『「利他」とは何か』(集英新書)が興味深く、専門分野もさまざまな5人の著者が「利他」について考えたこの本のなかでも、伊藤亜紗さんのパートにおいて「信頼と安心」にかんして書かれた部分がとくに心に響いた。

伊藤さんは「特定の目的に向けて他者をコントロールすること」を「利他の最大の敵なのではないか」として、山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』をひきながら、似た印象を持つ「信頼」と「安心」という二つの言葉についてこんなふうに説明する。

 

 

 安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態です。要するに、相手の行動が自分のコ  

 ントロール下に置かれていると感じている。

 それに対して、信頼とは、相手が想定外の行動をとるかもしれないこと、それによって自分が不利益を被

 るかもしれないことを前提としています。

 (中略)

 つまり信頼するとき、人は相手の自律性を尊重し、支配するのではなくゆだねているのです。

 

 『「利他」とは何か』第一章「うつわ」的利他──ケアの現場から 伊藤亜紗(集英新書)P49-50

 

濱口竜介監督の最新作、『ドライブ・マイ・カー』を見ながら考えていたのは、この「信頼と安心」についてだった。

 

濱口監督の作品において、他者はけして「安心」ではなく、どれほど身近な存在であっても、ふとしたきっかけで、突如として見知らぬ顔をのぞかせる。

『ドライブ・マイ・カー』の主人公である家福悠介は、妻の音がほかの男とセックスしている姿を目撃する。音もまた家福にとって「安心」ではない他者として、そのまま、この世を去ってしまう。

 

音の死後2年が経った家福は、繰り返し舞台で演じてきた「ワーニャ伯父さん」を演じることができなくなってしまった。

『ドライブ・マイ・カー』の中では、濱口監督が実際にとっている演出手法である「本読み」が、演出家としての家福による舞台の稽古法として描かれる。感情を込めず、ただただそこに書かれたテキストを読む、その穏やかな積み重ねによって、演ずるという関わりあいのなかでさざなみが起きるさまを、イ・ユナとジャニス・チャンが公園で演じてみせたシーンで私たちは目撃する。力任せではこじ開けることのできない重い扉が、音もなく静かに開くように。

 

再び『「利他」とは何か』をひくと、伊藤さんはこのようにも書いている。

  

  (前略)どうしても私たちは「予測できる」という前提で相手と関わってしまいがちです。「思い」が

 「支配」になりやすいのです。利他的な行動をとるときには、とくにそのことに気をつける必要がありま

 す。

 そのためにできることは、相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないでしょ

 う。知ったつもりにならないこと。自分との違いを意識すること。利他とは、私たちが思うよりも、もっ 

 とずっと受け身なことかもしれません。

 さきほど、信頼は、相手が想定外の行動をとるかもしれないという前提に立っている、と指摘しました。 

 「聞く」とは、この想定できていなかった相手の行動が秘めている、積極的な可能性を引き出すことでも

 あります。

 

 『「利他」とは何か』第一章「うつわ」的利他──ケアの現場から 伊藤亜紗(集英新書)P54-55

 

ここで書かれている「利他的な行動」や「利他」は、『ドライブ・マイ・カー』で描かれている「演ずること」に置き換えられるように思う。

 

『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』(左右社)に収められた『ハッピーアワーの方法』というテキストで濱口監督は、本格的に「本読み」の手法を取り入れた作品『ハッピーアワー』をめぐって、「執筆作業は我々が彼女たちに「聞く」作業であった。我々にとって重要な事柄を、彼女らを尊重しながら為すことが可能か、という絶え間ない試みだった。(中略)撮影は、特に『ハッピーアワー』撮影において唯一具体的な演出であった「本読み」とは、演者がテキストを「聞く」フェイズだったのではないか、と今にして思う。」と書いていた。

執筆者が演じる人に「聞く」──注意深く尊重しながら書いたテキストを、「本読み」において演ずる人は自らの声によって「聞く」。自分や相手の声を「聞き合う」ことの積み重ねによって、演じる人は「何かを起こす」ことができる。

家福の演出に対する考えを濱口監督のそれに重ね合わせるならば、この相互に尊重しあう関係が家福にとって演じるということの中核である一方で、家福自身は音の声をあまり「聞け」てはいなかったのではないかと思う。思えば、家福はセックスの最中に音が語り始めたとき、顔を覆ってしまい、音の核心に迫るであろう物語から逃避するような態度を見せていたし、家福が「聞け」ていないことをわかっていたからこそ、音は死の当日、家福に何かを話そうとしていたのではないか。

音の死後、音による「ワーニャ伯父さん」のテープを車の中で繰り返し流しながらも、家福はどれほどそれを「聞け」ていたのだろう。どこかで自身が「聞けていない」ことを感じていたからこそ家福は「ワーニャ伯父さん」を演じられなくなっていたのではないだろうか。

 

村上作品における女性は、謎めいた現実味の希薄な存在として登場することが多いけれど、理想化された他者を警戒する濱口作品の中では、家福の旅路に同道するドライバーの渡利みさきも、けして傷ついた家福を癒す天使としては描かれない。みさき自身も深い傷を抱えながら生き、その傷は家福との旅によってあらわにされる。みさきと家福は同じ車に乗り、時間を共にするなかで、互いの存在を反響させあうけれども(そういえば家福が出会う人たちの多くは、どこか家福と重なり合う境遇を持つ。幼いわが子を亡くした家福とお腹の中の子を亡くしたイ・ユナ、コン・ユンス夫妻、家福の娘が生きていたら同い年のみさきは親を見殺しにしたと感じていて、家福は帰宅を遅らせたことが妻の死につながったと考えている。若い俳優の高槻は同じ音という女に惹かれ、家福が幾度も演じてきた役を演じる)、みさきの傷は家福の自尊心の回復のためにあるわけではない。家福の傷が家福だけのものであるように、みさきの傷はあくまでみさきだけの傷だ。

 

また、原作において、複数人の男と寝ていた家福の妻(そう、原作では名前も与えられていなかった)についてみさきは「女の人にはそういうところがあるんです」と説明する。その一方で、本作におけるみさきは、音が家福を愛していたことも、ほかの男と寝ていたことも、そのすべてが真実で「謎なんてなかったんじゃないですか」と言う。原作において、男性である家福には致命的に理解不可能で、まるで理性の外にいるかのように不可解な「謎」であった「女の人」の音を、映画『ドライブ・マイ・カー』ではみさきを通して複雑で立体的な肉をそなえた人間として、描きなおしていた。他者は理解し難い側面を備え、ときに自らを傷つけるかもしれないけれども、それはけして「女の人」が理性の埒外にある「謎」だからではなく、他者とはそもそもが「自分のコントロール下」にある存在ではないのだ、と。

 

「本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」と疾走する夜の車の中で高槻は言った。みさきとの関わり合いのなかで、自身を直視し、顔を覆う手を取り払って音をまなざすことができたとき、家福は「想定外の行動」をとりうる他者の声を心から「聞く」ことができるようになり、再び演じる人として舞台に立つことができたのではないだろうか。

 

この映画は、『ドライブ・マイ・カー』のか、同じく『女のいない男たち』所収の『シェエラザード』や『木野』のエッセンスを取り入れているし、高槻のキャラクターは、『ダンス・ダンス・ダンス』に登場する心に空洞を抱えた俳優、五反田とも重なる。そしてみさきの故郷である北海道の「十二滝村」は、もともと『羊をめぐる冒険』に登場する地名(原作では「十二滝町」)だ。『ドライブ・マイ・カー』はこのように、過去の村上作品をも通奏低音のように響かせ、深く敬意を払いながらもきっちりと批評的な態度を持っていて、その姿勢自体が、まさに原作への「信頼」に満ちたものだと感じて、村上作品の映画化としても濱口監督の新作としても深く楽しんだし、猫と暮らしている者として、ラストシーンは、人間以外との信頼関係の所在を感じて、うれしくなった。