2021年読んだもの・いくつかの記録

どこにいてもだいたい心があさっての方を向いている地に足のつかない自分をそれでもいいのだと、ときに優しく、ときにジェット気流のごとくもみくちゃに力づけてくれるような出来事がいくつかあり、苦しいこともあるけれど、これからもまた世界を覆う薄皮がてろりと剥がれ新しい顔を覗かせる瞬間を目撃するために生きるぞ〜と思えた年になりました。

あまりたくさんの本は読めなかったけれど、今年読んだなかから印象深かったものをいくつかまとめておこうと思います。
思いつくまま書いていたら力つき、2冊目以降は一言ずつになりました。

いつかそれぞれの岸辺ににたどり着く日まで来年も泳ぎ続けましょう、よいお年を。

 

豊饒の海 第一巻 春の雪』三島由紀夫

三島由紀夫は『仮面の告白』や『金閣寺』を十代の頃に読んだきりで、まったく思い入れのないままこれまで過ごしてきたのだけど、ある日ふとたっぷりとした豊かな日本語を読みたくなって目についたこの本を買ってみたら、あまりのすごさに仰天してしまった。銀座の鮨屋へ行き、鮪のおいしいところくださいな、とお願いして、熟達した職人が握ってくれた大トロの鮨という感じ。
豊饒の海』シリーズは、終盤に向けて小説に向けられるエネルギーがあからさまに失速していくため、四部作の中でも『春の雪』がずば抜けていて、この時期の三島由紀夫に書けないものはないのではと思うほど、あまりにも緻密に巧みに何もかもを書き尽くしている。
美しく儚く、純粋なものに執着する一方で、老いやそれに起因する老獪さに対する嫌悪感がそれはもう凄まじく、とくに老女・蓼科にかんする執拗な書きっぷりには慄き、読みながら何度もリアルに声を出してうめいた。「蓼科はいわば、手ごたえのたしかな血まみれなものの専門家だった。」という一文など、何度読んでも新鮮に強烈。嫌なものについて書くときこそ、異様に仔細になってしまう気持ちはなんだかわかる。
純粋さや美への指向は後の事件とあまりにも直結していて、当然手放しには称賛できない部分が多々ある作家だけれど、人は矛盾や不完全さをはらわたに抱えながら生きるしかないのだと反面教師として思う。

 

『往復書簡 限界から始まる』(幻冬舎上野千鶴子鈴木涼美

高校を卒業するまでの、制服を着ている間、しばしば「おじさん」から「いくら?」とか「生足の写真を撮りたい」といった言葉をすれ違いざまに投げかけられていたし、周囲のクラスメイトも多かれ少なかれ似たような目にあっていた。そしてなんならこれらの出来事はかなりマイルドな方でもある。
当時、世間やメディアの中で「セクハラ」や「痴漢」はどこか軽いジョーク的なニュアンスを持つ言葉のように扱われていたし、そのような振る舞いにおよぶ「おろかな男」をうまくあしらえるのが「いい女」だとされていて、十代の私たちもそれを重々承知したうえで、自分たちの体験を休み時間や放課後に持ち寄っては「キモい」とか「ウケる」と言ってなんでもないことのようにして笑っていた。男性性に対し、見下したり諦めたり、あるいはその裏返しとして極度に崇拝する以外の振る舞いをかなり大人になるまで知ることができなかった。
だからこそ本書の冒頭にある「被害者だと思われたくない」という鈴木涼美さんの言葉は、自分にとってあまりにもクリティカルで、見て見ぬふりをしてきた開かずの部屋の内部を点検する大きなきっかけとなったし、そのような問いがこの本の中にはたくさん含まれていた。
どうしても自分の話をしたくなるし、読んだ人同士で言葉を交わし合いたくなる。そのようにしか語れない細部を持つ本だと感じた。

 

 

『消失の惑星』ジュリア・フィリップス
(一人ひとりの生を消費させない気概に満ちていた)

 

『「利他」とは何か』伊藤亜紗中島岳志若松英輔國分功一郎磯崎憲一郎
伊藤亜紗さんのパートにおいて「信頼と安心」にかんして書かれた部分がとりわけ心に残り、また『ドライブ・マイ・カー』を観るうえでの補助線にもなった)

 

『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』
(あまりにも画期的、有限性による諦めから得られることは、無限の可能性と向き合うよりもずいぶん大きい)

 

dancyu 2021年9月号「すごいぞ! スーパーマーケット」
(本じゃないですが、最推しスーパーのオオゼキが大フィーチャーされててめちゃあがった)

 

『本は読めないものだから心配するな』管 啓次郎
(こんなにも勇気づけられるタイトルがあるでしょうか?「夢は対抗のための退行」という言葉がよかった)

 

そして、今年中に読みたかったけれど読み残したのは『星の時』クラリッセ・リスペクトル 、『原節子の真実』石井妙子。また来年に。