「イヴの総て」─ イヴ・ハリントンと乙部のりえ

1950年に公開されたジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の「イヴの総て」を見た。

 

アン・バクスター演じるイヴ・ハリントンは、自らの不幸な生い立ちを語って人気女優のマーゴに近づく。一見純朴で真面目な気のきく娘のように見えるイヴだが、実は策を弄してマーゴの周囲にいる演劇関係者に取り入り、舞台で役を得ようとしている。

イヴが語る生い立ちは嘘ばかりだし、たしかにあまり褒められた性格ではない。身近にいたら頭にくるだろう。一方で彼女は物語の中で悪女として描かれるけれど、それほどたいした悪ではないと思う。野心を持つことは、けして悪いことではないのだから。どちらかというと、イヴの秘密を知ったうえで彼女をゆすって自分のものにしようとする批評家のドゥイットのほうがよほど悪い。

 

この作品で目を惹かれるのはイヴではなく、ベティ・デイヴィスが演じた中年に差し掛かった女優マーゴ・チャニングだ。ベティ・デイヴィスの圧倒的な存在感と比べるとアン・バクスターはあまりにも平凡な美女で、だからこそ当初従順なおとなしい女に見えるイヴ役にあっているとも言えるのだけど、いくら年若く美しいからと言って、この程度の女にマーゴが引けを取るわけがないだろうと思う。

 

実際この映画は、ずっとマーゴの話をしているとも言える。

マーゴの代役を務めたイヴの芝居について「本物の女優が生まれたんだ 昔の君がそうだったように」「音楽のような炎のような…」と評したドゥイットに対し、マーゴは「音楽と炎ね 私もそう言われていたわ」と返す。

この台詞からもわかるように、イヴはかつてのマーゴだ。マーゴは成功した女優となったけれど、かつては自分もイヴのように野望に燃える若い一人の女だったからこそ、マーゴにはイヴの野心が手に取るようにわかる。

そんなマーゴが結婚を機にあっさり役をイヴに譲ってしまったり、役を手に入れたイヴが無事に舞台を終えて大きな賞を得たもののけして幸せそうには見えないのは、1950年代における女の幸福のあらわれという感じがするけれども。

 

それはさておき、演劇賞を手にしてイヴが帰ってきたホテルの部屋には、ブルックリンのハイスクールでイヴのファンクラブの会長を務めているという少女が忍び込んでいた。

彼女は疲れ切ったイヴの代わりにインターホンに出ると、訪ねてきたドゥイットからイヴが忘れていった演劇賞のトロフィーを受け取る。彼女はなぜかドゥイットの名前を知っていて、「君もそんな賞が欲しいか?」ときくドゥイットに「ええ絶対に」と答える。ドゥイットはあきらかに少女に目をつけたようで、やっぱりこの男は最悪だ。

少女は、イヴがパーティーに来て行ったガウンをこっそりと羽織り、トロフィーを持って鏡の前で微笑む。合わせ鏡の状態になった三面鏡には無限に増殖する彼女の姿が映りこむ。彼女もまた、次のイヴであり、マーゴのかつての姿なのだ。野望を抱く女たちは無限に円環し続ける。

 

イヴ・ハリントンはまた、成功した「ガラスの仮面」の乙部のりえでもある。

乙部のりえも、素朴な少女を装って北島マヤの付き人になり、マヤを蹴落としたのちに、マヤの代役として舞台に立ちそれなりにうまくこなしたけれど、彼女の芝居はまるでマヤの物真似で、イヴほどの芝居の才能はなかったようだ。なにせ「ガラスの仮面」の世界にはマヤのみならず、マヤに並ぶ才能を持つ姫川亜弓という人もいるのだから仕方がない。亜弓は乙部のりえの悪事を知ったあと、彼女と同じ舞台に立って、その芝居の実力で圧倒する。乙部のりえは亜弓を通じて、マヤという天才にひれ伏すしかなかった。

イヴの総て」の世界には、亜弓さんがいなくてよかったね、イヴ、と言うほかない。

 

www.amazon.co.jp